人生にSTORYを持つ人々の壮大な生き方のイベント『Mrs of the Year』の全国大会にてグランプリに選ばれた人に贈られたのが植松晃士氏との対談掲載。今回は大快 淳子さんの人生STORYを紐解きます。
ダンス教室経営
大快淳子さん(46歳)
現在茨城県でダンス教室を営んでいる大快さん。独身時代は働きながら、夜はクラブなどで踊っていたそう。その後結婚し、出産を機にご主人の実家である茨城に転居。出産後、ダンス教室を開いたそう。
-ご主人との出会いのきっかけは何だったんですか?
主人はもともとアーティストで、彼が主催したイベントにダンサーとして参加したのをきっかけに知り合いました。彼はエイベックスに所属しているラッパーだったのですが、今はもう引退して、飲食店を営んでいます。
―ダンススクールはどんな規模で経営しているんですか?
主人のコネクションもあるので「東京に行かなくてもデビューできる」というのが私のダンススクールの売りで、現在はダンサーとモデル、ボーカル部門合わせて300名ほど在籍しています。沖縄アクターズならぬ茨城アクターズを目指しています。
―300人規模になるまではきっといろいろご苦労もあったんでしょうね。
それはもう大変でした。茨城という土地に知り合いもいなかったのでゼロからのスタートでした。まず情報収集のために子どもと公園デビューをして、友人を作り、そこから「ダンスやってたの」という会話になって。そうしたら「やりたい」という人が結構いたので、茨城のダンススタジオをいろいろとリサーチしました。そうしたらこの地域にはそんなにダンススタジオがなかったので「これはやったもの勝ちだな」と思ってスタートしました。最初は市役所とかにいって「ダンスを踊らせてくれる場所はありませんか」と尋ねて体育館を借りたり、お祭りが開催されるときはダンサーが参加できるかどうか聞いてみたり。あとはリサーチとして茨城のダンススタジオに子ども連れで体験に行って、茨城のダンスレベルがどの程度のものなのか調べたりしました。
―すごいですね。子どもができると自分自身が変わるものですか?
そうですね、もう後戻りできないというか「やるしかない!」っていう感じですね。OL時代にはない積極性を発揮して、自分でも驚きました。そもそも主人がすごく積極的に行動する人なので、それに影響された部分もあるかもしれません。とにかく彼は人を誉めない人なので「なんとかして褒めさせてやる!」みたいな気持ちが生まれたのかもしれません。今もぜんぜん褒めてくれませんけどね。それがまた私の負けず嫌いに火をつけて、パワーの源になっているのかもしれません。
―もともとダンスはどこで習ったんですか。
私が若かったころはまだそんなにダンスレッスンがメジャーじゃなかったんです。なのでいろいろ探して、いろんな先生に習って習わせていただきました。今もたまに都内に習いに行くことがあります。教える側としてもたまに習っておかないと私自身が伸びないし、それにどういう風に教えたらいいのかっていうお勉強になりますので。
―ダンスに興味を持ったスタート地点はどこだったんですか?
学生の頃、父親の仕事の都合でドイツに住んでいたんです。その時に通っていた学校がインターナショナルスクールで毎月ダンスパーティーがあり、そこでダンスの面白さに目覚めました。ドイツに6年、中学・高校と通っていました。でもドイツ語ってすごく難しくて、お買い物ぐらいしかできなかったですね。そこでダンスに目覚めたんです。「帰国したら絶対ダンススタジオに通おう!」って思ってました。今振り返ると、ドイツでの生活は私の人生の中でいちばん過酷な時期でした。記憶がほとんどないんです。寝ていてもずっと寝言で英語をしゃべっていたり……。そもそも英語すらまともにしゃべれないのにいきなり海外生活だったので。弟も一緒に行ったんですけど、弟には言葉の壁がなくて、私だけぜんぜんダメで。人生でいちばん辛かった時代です。だからこそ、言葉がいらないダンスが楽しくてしょうがなかったのかも。
―ダンススクールを始めて今のように軌道にのるまではどのくらいかかりましたか?
ダンススクールをやろうと決めてから、まずは3年計画を立てました。もう15年ぐらい前ですね。「次はどんな自分になりたいか」って。最初は公民館とかいろいろな場所を借りてスタートして、公園で知り合ったお友達とかに「無料で教えてあげるよ」って声をかけるところから始めました。でも「無料じゃ悪いから……」っていうことで「じゃあワンコインで」という流れになりました。そうしたら、次はワンコインレッスンに見学者がいらっしゃるようになって、だんだん口コミで人が増えていったんです。すると次は「この規模でやっている自分」が許せなくなってきて。それからは本気でフライヤーを手作りしたりとさらに本気で新規開拓に取り組むようになりました。
―で、最初に立てた3年計画通りスタジオをオープンできたのですか?
そうなんです。とても小さな規模でしたが、スタートできたんです。数年後にはもう少し規模の大きいスタジオに移転して、そこも数年で狭くなっちゃったので、4年前に思い切ってお金をかけて今の広いスタジオに移転したんです。そうしたら、そのタイミングでコロナ禍になっちゃって……。子どもたちのモチベーションをどうやって上げるかが大変でした。
―コロナ禍でもみなさんレッスンに来たの?
はい、いつもと変わらず通ってきてくれて。とはいえ、絶対にコロナの1号は出しちゃいけないと思って、最初の頃はオンラインでレッスンしたのですが、私たちがオンラインを学ぶところからのスタートで、それも大変でした。コロナが落ち着いてからは人数制限をしたり、対策を厳重にしてスタジオでレッスンしました。でもイベント自体がなくなっちゃったので、YouTubeで発信しようと思って、振り付けと構成を考えて、生徒さんたちには綺麗に着飾って来てもらって。で、私達も動画の編集を覚えました。
―お仕事が忙しい中、ご家庭とのバランスのとり方は?
二十歳の娘と19歳の息子、二人ともダンスをやっているんですね。娘はもうスタジオを継ぐといって私の手伝いをしてくれています。息子は主人がやっている飲食店を継ぐと言っています。家族全員仲が良くて、一緒にいる時間が長いですね。ただ、夜は私も主人も帰りが遅いので、お姑さんの世話になっています。家庭もダンススタジオも「楽しけりゃいい」が私のベースです。
―将来のビジョンはあるのですか?
スタジオのフランチャイズのお話もいただいていて、それもいいなと思っています。私は50には引退しようと思っているので、そろそろ裏方にまわってもいいかなと考えています。娘も頑張ってくれているし。私にとっては生徒たちの成長を見ているのが一番の幸せ。なので、生徒たちにはこれからも私が何かに挑戦し続けている姿を見せていきたいですね。今回、このコンテストを受けたのもそれが理由なんです。生徒さんたちとは長年お付き合いをしていて、第二の母みたいな感じです。成人式の日に「成人したよ」って報告に来てくれたり、深く長い付き合いが続いています。
これからも人とのつながりを大切にして、私自身も成長を続けながら、スタジオももっと大きく有名にしていければと思います。
MusicStudio HIGH SPACE LAB
茨城県筑西市茂田 ザ・ヒロサワシティー内 広沢ホール2階
0296-48-9641
https://musicstudio-highspacelab-lp.com/
text:AYAKO TAKAHASH