バストメイクスタイリスト
行木(宮島)恵子さん
59歳
──圧倒的に「陽」のオーラを放ち、天真爛漫な笑顔が印象的な行木恵子さん。
その印象からは想像もできないほどのジェットコースターな人生を歩んできている。
マネージャー業を一度辞めて出産
子供が生後三ヶ月のときに夫が事故死
娘が生後三ヶ月のときに、夫を交通事故で亡くしているんです。
バイク事故でした。それから実家に戻り、30代は怒涛の10年間でした。
大御所のタレントさんのマネージャーをしていたのは21歳のときからです。
途中、結婚·出産があったので30代の10年間は育児で抜けていますね。
40代からまた戻ってきた感じになります。
──芸能界でマネージャーになるきっかけは、どのような経緯からなんでしょうか。
当時、日本では珍しかったネイルを通して
美容感度の高い大御所芸能人のマネージャーに
高校卒業後、アパレルのバイトを転々としていたんです。今でいうニート?
当時から美容が好きで、ヘアメイクさんに興味がありました。
ヘアメイクの学校も探していたんですけど、その頃はまだ本当に少なかったですね。
やっと見つけていざ見学に行くと、どの学校もデッサンの授業があると分かったんです。
私、美術が大の苦手なので、通うのに気が引けてしまって。
ある日バイトが終わって帰宅しようと駅のホームにいたら、「インターナショナルビューティーアカデミー」という学校の看板が目に入ったんです。ネイル科があり、たまたまそれをパッと見て、輝いて見えたんです。ネイルにも興味があったので、私にここへ行けって(笑)。駅から学校がすぐ近くにあったので、帰宅せずにそのまま学校見学に直行! その看板を見つけなかったら、今の私はいないですね。バイトで一生懸命お金を貯めていたんですけれど、足りるわけもなく……。親に少し援助してほしいとお願いをして、晴れてネイル科の学校に通えるようになりました。
そのとき東京でネイルサロンがまだ3店舗ほどしかない時代。
ロスから日本にネイルを持ってきた方で、当時多くの芸能人が通っていた
ネイルサロン「ネイルバンク」を主宰していたアン山崎さんが講師でした。
今でもネイルケアには余念がない行木さん。
サロンに通ってネイルアートを楽しんでいる。
その学校で半年ほど勉強して、いざ就職するときに、ネイルサロンがないので
なかなか勤められる状況ではなくて。
そんな時に、アン先生のサロンに通われていた、芸能人の方のマネージャーが
今ではなかなか聞く事もない寿退社で辞められたので、新しいマネージャーを
ちょうど探しているとのこと。若くて、すぐに辞めない子ということで、
卒業する中で私がたまたま一番若かったので、お声がけいただいたんです。
草月会館のレストランで面接を兼ねたランチでは、TVでいつも見ていた芸能人が目の前にいて、緊張で全く食事が喉を通らなかったですね。ネイルの世界から全く離れるわけではないし、やってみようと。21歳の小娘がミーハーな気持ちだけで、面接にいらっしゃいと言われて、行って通ってしまったみたいな感覚ですね。
そんなきっかけで芸能事務所のマネージャーになったんです。
──今よりも、芸能界が華やかな世界で「ザ・芸能界」だった時代。
マネージャー業での苦労を聞くと……。
それが既に人気のある大御所の芸能人の方に就いたこともあり、そんなに大変ではなかったんですよ。仕事を取ってくる営業も全くないなし、黙っていてもオファーはいっぱいくる状態。その膨大な仕事量の段取りをこなして、さばいていくのは大変でしたけど。
マネージャー時代の行木さん。
入社した当初はマネージャーがいたので、はじめの3年間は付き人的な感じで働いていました。時間は不規則ではあったのですが、当時ではめずらしく、事務所の方針で普通に土日はお休み。そういった意味では、結構楽だったんです。深夜に稼働したのは年末くらいかな。大御所のタレントさんだったのにも関わらず、わがままな面もなく、今まで気が合わないと思ったことも一度もないほど。事務所も自分の好きなように変えていいからと言われて、膨大な数の衣装や靴をポラロイドで撮影して必死に整理したのも、いい思い出ですね。その方のお人柄と人気のおかげもあって、芸能界での仕事はすごく楽しかったんです。
──20代は順風満帆。27才で結婚して、出産ギリギリまで芸能事務所で働いていたそう。
当時ではめずらしく、29歳の臨月まで働いていましたね。
それで一回、仕事を辞めたんです。
会社も産休・育休の制度が今ほど整備されていなく、一度仕事に区切りをつけました。
そして無事に出産したものの、生後三ヶ月で夫が交通事故で他界。
仕事に戻る気は、全く起こらなかったですね。
ただカメラマン・ヘアメイク・スタイリストの友人達と一緒にマネージメントオフィスを
立ち上げ、私が復帰した時には、マネージメントをするという話があったのですが、こういう状況になってしまったので、なかなか難しかったですね。
──突然の夫の死を受け入れられない日々が続き、
育児になかなか向き合えない中、あることが起こる。
自分の子供を抱っこしたときに
ギャン泣きされ、我に返る
夫を突然亡くして「これからどうなるんだろう」って。悲しすぎると涙が出ないって、こういうことなんだなと思いました。不思議なほど全然、涙が出なかったんですよ。
正直そのときはまだ自分の中で「母」という自覚がなかった。自分ひとりになってしまったという感覚のほうが大きくて。生後三ヶ月の娘がいるのにも関わらず、育児に向き合えず、ずっと母や妹にお願いしていたんです。起きたことに、心の整理がついていなかったのかもしれません。「えっ? なんで? 噓でしょ? 本当にこれ現実?」って。
そのとき起きている現実を、全然受け入れられなかったんです。
夫が亡くなって、三ヶ月後くらいして少しずつ気持ちが落ち着き始めた頃、
私が子供にミルクを飲ませようとして抱っこしたら、ギャン泣きされたんですよ。
「えっ?」となって、そこで我に返りましたね。
「この子、私のことを母親だって分かってない」とハッとして、
そこから子供の面倒を見るようになりました。
その間、仕事はしていなかったんです。両親も古い人間のタイプなので「三歳までは自分でちゃんと育てなさい」という考え。「三歳までは仕事できないなぁ」と漠然と思っていました。ただ夫が知らぬ間に会社の保険に加入していたくれたおかげもあり、すぐに働かなくてはいけない環境ではありませんでした。
──その頃は「シングルマザー」という言葉自体、あまり浸透していない時代ですよね。
周りにいなかったですね~。娘はあまり家族に関して何かを言う子ではなかったんですよ。そういう風に育てたつもりはなかったのですが、すごく自立している子だったので、いまだに父親のことを聞かれたことがないんです。
ずっとおじいちゃんである私の父が一緒にいたので、お父さんの代わりもやってくれる。参観日などの学校行事は父や、妹の夫である義理の弟が全部出てくれるなど、周りがすごく協力的だったことには、本当に恵まれていましたね。
──娘さんも、その家族の愛情を感じて育ったからこそ、一度も亡くなった父親のことについては聞かなかったのかもしれませんね。
子供が3歳くらいまでのときは、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんもいた中で育ってきました。その頃は覚えてないとは思うんですけど、いい環境だったとは思います。
──そこからまた働き始めるきっかけは何だったのでしょうか?
30歳から36歳までの6年間は
2年おきに家族の死別を経験
それが今度は、母が亡くなってしまったんです。
私、30歳から36才までの6年間で、2年おきに死別を経験してきているんです。
まず夫を亡くして、次に祖父、祖母、そして母。
最後の最後に、最愛の母を36歳の時に亡くしました。
結局、母の闘病もあったので仕事に戻れなかったというのもありました。
夫を亡くしたあとも、何だかバタバタと6年間が過ぎていったしまった記憶ですね。
父も一年早く退職して、母につきっきりで看病していたので、私も家のことをするので精一杯の日々。その間、お手伝い的な仕事をすることはありましたが、本格的に仕事をする気持ちにはなかなかなれませんでした。
──世間一般的には50代以降で経験されるようなことを、30代で一気に経験された感じですよね?
なんか一生分の不運を30代で全部経験したみたいな(笑)。
だから次の40代以降は、いいことしかないはず! と思って生きていこうと思っていました。36歳で母を亡くしてからは、ご縁があってTVの通販雑誌のイベント部で2年ほどパートで働いた後、以前、勤めていた芸能事務所から戻ってきてほしいと連絡があり、40歳のときに再び働き始めることになりました。
──10年ほどのブランクがあってから復職されたときは、どんな心境でしたか?
40歳で復職したマネージャー業のほかに
エステの世界に飛び込む
芸能事務所のマネージャーは、なかなかあまり続かないことが多いようで……。
結局、対「人間」なので、人との相性はありますよね。私はそのタレントさんと今まで合わないと思ったことがなかったので、また復職することができたのだと思います。
ただご存知の通り、芸能界は人気の移り変わりが激しい世界。担当のタレントさんの仕事も以前よりはゆるやかになっていたこともあり、マネージャー業の他にも、何か副業をしてもいいという流れに。以前から美容が好きだったこともあり、エステの世界に飛び込んだんです。
持ち前のバイタリティで、サロンの店長になり
独立して自分のサロンを持つ
もちろんすぐにエステティシャンとして活動できたわけではなく、友達や、知り合いの方のサロンでお勉強させてもらいながら転々として続けていました。
最終的に47歳くらいのときに、バストに特化したサロンに社員として入社。ライターのお友達が、当時バストケアの第一人者の方に取材して、すごく面白い人だからと紹介してくれたんです。そしたら、「明日からでもすぐ来てほしい!」と言われて、1年半ほど店長として働いていました。
自分のサロン「souriant」(スリアン)で施術を行う行木さん。
その後、独立。店舗を持つことはせず、出張のスタイルで続けていましたが
やっぱりずっと店舗を持ちたかったので50歳のときに埼玉にマンションを購入して
サロンをスタート。今は事実婚の夫の家をフルリフォームして、その一室にサロンをつくってもらい続けています。
──幸せを実感するのはどういうときですか?
今、念願の自分のサロンをできていることが、すごく嬉しいですね。
バストで悩んでいる人って、想像以上にすごく多いんです。
サロンにいらっしゃったときにドヨーンとした空気だったのが、
ニコニコの笑顔になって帰っていかれる姿を見ると、すごく幸せですね。
サロンで実際に使用している行木さんおすすめのバストケアクリーム。
芸能人にも愛用者も多い。多くの美容成分を独自に処方したVOLCENTA バストクリーム。
──人生100年時代、これから10年の展望を教えてください。
続けられるのであれば、ずっとサロンを続けていきたいですね。
ボディケアはだんだん難しくなってきてしまうかもしれないですが
フェイシャルだったら続けていけると思うので。
可能な限り、これからもお客様の笑顔に触れられるお仕事をしていきたいです。
■行木さんの経営するサロン
souriant(スリアン)
https://souriant-0715.com
今年でオープンして10周年を迎える。
完全プライベートな空間でリラックスでき、バストケアの他にリンパマッサージ、フェイシャル、よもぎ蒸し、イオン導入、ポレーションなど幅広い施術メニューが体験できる。
text:MIYUMI NEZASA