髙安薫さん・51歳
会社員/ウォーキング講師
ミセスオフザイヤーワールド2023準グランプリ受賞
『女神プロジェクト』主宰
スラリとしたスタイルに、口角がきゅっとあがったやさしい表情が魅力の髙安薫さん。専業主婦から20年のブランクを経て、48歳で正社員に。
乳がんをきっかけに、自分と向き合い、世界コンテストで準グランプリを受賞する。一歩を踏み出すことで、人生の旬を手に入れた、大人のリアルストーリーとは?
「できること」ではなく
「やりたいこと」をやろう
「専業主婦になるのが夢だったので、結婚をした20代後半からずっと専業主婦だったんです。下の子が中学生ぐらいになったら、自分の時間ができると思って、アルバイトでもいいから何か仕事を始めようと思ったんですね。アルバイト雑誌を見て、自分にできることを条件に探していたのですが、どうして私は、できることをやろうとしてたんだろうと、ふと思ったんです。「できること」ではなく、「やりたいこと」をやろうと。そこで掲げた目標は、IT企業で働くということ。正直IT企業で働くというよりは、小栗旬さんと石原さとみさんのドラマ『リッチマン、プアウーマン』で、社内をセグウェイで移動しているという設定が大好きだったんです。IT企業なら、それができるかもとしれないと思ったんです」
一見、髙安さんのミーハーかもしれない純粋な思いは見事に叶う。ディー・エヌ・エーの子会社に、アルバイトで採用されることになる。残念ながらセグウェイはなかったけれど、社内には小さなジムとBarが併設されていた。
「本当にラッキーでしたね。44歳でアルバイトに採用。当時の社長はなんと29歳という若さ! 社員のほとんどが20代で、子持ちの40代は私しかいないような環境の中でも、毎日が本当に楽しくて。きっと社内でお母さん的な存在が必要だったと思うんです。ただ20年のブランクもあり、私も年上だからという言動はしませんでした。社内の受け入れ態勢もポジティブで、毎日のように社内の飲み会にも誘ってもらっていました(笑)」
下の子が高校生になるタイミングで、正社員として働きたい気持ちが芽生える。お世話になった会社でできることはやり尽くしたような気持ちがあり、髙安さんは転職する道を選ぶ。
「正社員になったのは48歳のときでした。皆さん、48歳で正社員になれるってすごいねと、おっしゃってくださるのですが、正直、それがすごいと言っている間は、おこがましいですが、日本はまだまだだなって思うんです」
48歳で再就職可能な社会をつくるには、
どうしたらいい?
「少子化、少子化って政治家の方たちは言っているけど、女性は会社を辞めたら戻るところがなくなる不安がある。だから仕事を辞められないという環境の中で、子供を産んで育てるとか、旦那さんの転勤についていかなくてはいけないなど、大きな課題が女性には次々とつきつけられるんですよね。私だけでなく、誰もが48歳でも再就職可能という社会をつくるためにはどうしたらいいかなっていうのを、今は漠然とですが真剣に考えています。それが今の日本の社会でたくさん気になっていることのひとつです」
気負いなど1ミリもなく、朗らかな口調で話す、明るい人柄の髙安さんだが実は4年前に乳がんを患い、片胸を全摘している。
「ガンは検診ではなく、最初に自分で気づきました。ただ、私の場合、話を聞いてイメージしていたようなパチンコ玉とか小豆みたいなものが、ころんとしているようなものではなかったですね。ある日、鏡を見ていたら、“あれ? 胸のまわりにシワがあるけど、年を取ると、こんなところにもセルライトができちゃうのね”と。だけど触ってみたら、カッチッカチだったんです。広範囲で鉄板みたいな塊があるのが自分でも分かったんです。お医者さんから片胸を全摘すると宣告されたときも、自分なりに調べていたので、やむを得ないと覚悟はしていました」
基本的に闘病中も明るく過ごしていたという髙安さんだが、抗がん剤治療を始めて間もなく、お風呂の排水溝に、ごっそりと抜けた髪が山のようになっているのを見たときは、涙が止まらず、お風呂場から1時間ほど出られないほどショックを受けたという。
抗ガン治療中は、高い医療用ウィッグではなく、コスプレ用のお手頃価格のウィッグをいくつか用意。洋服のように毎日を着回しを楽しんで、吐き気やむくみなどの副作用を紛らわしていたそう。
「当時、娘が中3の一番多感な時期で、ママのハゲている姿は見たくないと言われ、これは絶対に隠さなくてはいけないと思ったんです。死に対する恐怖もあったと思うんです。家の中で寝るときでさえ、帽子かウィッグをかぶり続けていました。ただ髪の毛が生え始め、5分刈りか8分刈りになり、初めてありのままの姿を見せたとき、誰よりも一番泣いて喜んでくれたのは、娘でした」
「人によって本当に愛情表現って違うものですよね。息子は“ママがハゲた姿で学校にきても全然大丈夫だよ!”と言ってくれたり。私は3歳下の弟がいるんですけど、あるときから髪の毛を伸ばし始めたんですよ。最初、理由が分からなくて。堅い仕事をしているので、大丈夫なのかなと心配していたのですが、あるときヘアドネーションの写真を送ってきてくれたんです。振り返ると、弟が髪を伸ばし始めたのが、ちょうど私が抗がん剤の治療の宣告を受けたときだったんです。弟の髪の毛が私に直接生かされたわけではないけれど、私と同じ辛い思いをしている、誰かの役に立っているかと思うと、とても励みになりました」
今でももちろん、選択できるなら病気にはなりたくなかった。だけど、100%全部が駄目だったかっていうと、意外とそうでもないと髙安さんは言う。ガンの治療を通して感じることができた愛は、何にも代え難いもの。
そこで髙安さんは、ミセスの女性を応援するコンテストに出場することを決意する。
ミセスオブザイヤー世界大会では準グランプリに輝く。
準グランプリのティアラとサッシュを身につけて。
どんなに心や身体に傷を負っても
輝くことができることを伝えていきたい
「私自身が輝きたいという気持ちはもちろんあったんですけど、やっぱり胸を失ったときに本当に自信も希望も一緒に全部失ってしまったと思ったんですね。ただ闘病中に思いがけず家族や友達の愛をたくさん感じることができた。だんだん元気になっていく過程で、人ってやっぱりどんなに心や身体に傷を負っても、輝くことができるんじゃないかって。もしこんなふうに心も身体も傷だらけの私が輝けたら、今傷ついて苦しんでいる人の希望の光になれるのではないかと、ミセスオブザイヤーに出場しようと決意しました」
ウォーキングの美しさには定評がある。
「今も元気にしている私を見て、誰かが“よし私も病気を克服しよう”とか、今こんなことが辛いけど、もう少し頑張ってみようかなと思ってくれたら嬉しいですね。人に光を届けるのは何が大切かというと、自分自身が輝き続けることなんじゃないかな。自分が輝いていないと、やっぱり光を与えられないので輝き続けたいですね。そのためには、どんなことができるかを模索中です」
今後の展望を教えてください。
はじめはコンテストに出場する母親を恥ずかしがっていた娘さんも、準グランプリを受賞した際は、とても喜んでくれたそう。
「コンテストに出たおかげで、自分を見つめ直すいい機会になりました。「無理はしない、我慢もしない」ということを自分で決められたんですね。今までは子供のため、家族のためにと無理をしていた部分が正直あったと思うんです。子供たちには“ごめんなさい、ママはいないと思って”とまではいかなくとも、人の命に限りがあることを知った今、私は私のやりたいことをやらせてもらいますね、というスタンスで本当に自由にさせてもらっているんです。私も最初は後ろ髪引かれるような感じでしたが、人間っていい意味で慣れてくるものですよね」
一歩踏み出すことの大切さ
輝きたいと思った瞬間が、
その人にとっての旬
「結局、最初は戸惑いながらの一歩でしたが、踏み出してみたら、私も変わって周りも変わった。もう良いことしか起きてないんですよね。一歩踏み出すことの大切さを、伝えることが大事だなって。50歳とか年齢は関係ないなって本当に思っているんです。ミセスオブザイヤーでいうと私が出る前の年に、99歳の女性も出場したそうなんですいつからでも、今から輝きたいと思ったときがその人にとっての旬で、そこから輝き始められると思うんです。年齢や立場に関係なく、輝けるための女性のお手伝いはもちろん、男性にもしていけたらいいなと思っています」
コンテストに出た仲間4人で『女神プロジェクト』を立ち上げる。
隔月で開催し、美味しいお食事を食べながら、いろいろな人の講義を聞いたり、芸術に触れ合う場を企画。今の自分から変わりたいというひとのきっかけを作る場にしたい。
イベントは少人数制で開催。女性だけでなく、男性の参加者もいるそう。
コンテストで日本代表として着用した色打掛をドレスに仕立て直したナショナルコスチュームの美しさに感動。日本人でよかったという再認識に繋がったそう。
時代とともに変化をしても、美しい日本の文化は継承されていかなければいけないと、ナショナルコスチュームを着て、舞を舞うというチームを立ち上げた。
髙安薫さんのインスタグラム
kaoru_takayasu
text:MIYUKI NEZASA
FEATURE